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鍵っ子もいろいろと思うことがあるんです
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累を進める代わりに、俺はアイツを犠牲にした。

汚れた右手からまだ綺麗な左手へとバットを握り直し、思い切り投げた。

俺の胸には後悔しかない。それは今だって同じ。

でも好きだったよ。八重歯のチラつく笑顔の君が。

あの黄色い世界で涙を流しながら笑っているのかい。

俺も、連れて逝って欲しかったよ。




俺はどうも死んだらしい。
もちろん死因なんて覚えてやしないし、今までどんな生活を送っていたのかも覚えてない。
それでもたぶん俺は今まで人生を生きてきて、そして死んだ。
その事実とたった一つの思い出が俺の胸に刻まれていた。それを感じていた。今も。
死んで止まったはずの心臓が鼓動を打ってはいるが、俺は「生きている」という感覚を忘れてしまっていた。
でももしかしたらこれが「生きている」ということなのかもしれないと、俺は「生きている」心地を楽しんでいた。
とくんとくん、と打つ心臓の鼓動と同じくらいの回数で全身の血管からどくんどくん、と脈打つ感覚。
「あぁ、そうだこの感覚だ。俺はこんなことを当たり前だと思っていたんだ」と分かりもしない生きた心地を自分で納得する。
ふと自分の体を見回すと文字通り地に足もつかない状態で浮かんでおり、そこは果てしなく続く黄色い花畑の中だった。
黄色い花は一面に咲いているものの花の持つ匂いまでは分からない。自分の鼻では匂いを感じる事が出来なかった。
鼻が悪い、というわけではなくきっと黄色い花たちに匂いがないんだろう。俺は自己完結を繰り返した。

記憶がないわけじゃない。
俺は自分が人間であったことを覚えているし、花や鼻といった物体の名称、そして何より考える術を知っていた。
でも俺の名前がなんだったのか、親はどんな人だったのか、兄弟はいたのか、どんな将来を持っていたのか。
俺は「世界」を知らなかった。
俺を取り巻いていたはずの「世界」は一体どんなものだったのか、それが思い出せないままだった。
ただ一つだけ思い出せるのは…俺はどんな人間を好きだったのか、ということだけ。

俺は確か…そう、自分よりも年下の女の子がずっとずっと好きだった。
いつも俺の傍にはソイツがいて笑ってた気がする。俺もソイツも。
少しだけ見える八重歯が可愛くて、照れ隠しに頭を乱暴に撫でてやってたんだ。
元気な子だった。有り余った元気を他人に分け与えてあげられるような子だった。
何をするも全力投球だった。その全力に他人を巻き込む勇気を振るうような子だった。
思ってることが顔に出る子だった。それでも他人に自らの弱さを見せない強さを持った子だった。
ソイツが俺のことを好きだったのかは分からないけど、俺は好きだった。
好きっていうのは、もちろん恋人にしたいって意味の好き。
どこに惚れたのかまでは覚えてない。でも…強いていうなら、背中だろうか。
いや俺が背中フェチだっていう訳じゃない。
ソイツが前を向いて走っている姿を眺めてたら、俺はソイツの背中で「楽しい」んだって気持ちを感じた。
ソイツの足取りが覚束無いのなら、俺はソイツの背中で「寂しい」んだって気持ちを感じた。
思い出せるたった一つのソイツが、「世界」を知らない俺に何でも教えてくれるような気がしたんだ。
どうしてだろう。「世界」を何も知らない俺がたった一つだけ思いだせること。
俺はなんだか、ソイツにまた会いたい気がした。
またあの八重歯を見たいと思った。声を聞いてみたいと思った。一緒に話してみたいと思った。一緒にバカをやってみたいと思った。
頭を優しく撫でてあげたいと思った。顔も覚えていないのに…。

俺の胸の中でソイツへの想いが大きくなっていくにつれて、胸の中で誰かの語りかける声が聞こえてきた。
それは徐々に大きくなって、やがて俺の頭まで届いてきた。

―また、その子に会ってみたい?

何かの誘いをかけるような、それでいてどこか手を差し伸べているようなその声は俺の脳に浸透し、やがて全身へと走った。
電流、と表現するには少し弱いその一種の痛みにも似た快楽が車酔いのような吐き気を催した。頭がくらくらする…。
それにしても今コイツ…会ってみたいって…?

―君がここで今も覚えているその子に、会ってみたい?

また同じような甘い声で俺の脳を刺激する。俺はその声からまだ幼い天使のような容姿を想像した。
声変わりがまだ始まっていない甲高い少年の声。確かそんな声だった気がする。

―会わせてあげるよ。

…え?
俺はまだ少年の言っていることが少しだけ理解できないままにまた少し動転した。
アイツに会えるのか…?ここで?

―いいや。ここでは会えない。彼女は君が忘れてしまったあの「世界」にいる。

人生を、やり直す…ってことか?俺はまた生まれ変わって一から人生をやり直せるのか?
声に出していないはずの俺の沈黙に天使は首を振っている(ような気がする)。

―いいや。君は死んでなんかいない。気を失っているだけ。だから誰かが一回だけ君の背中を押せば、またあの「世界」に帰れる。

俺は、死んでいなかったのか。
そんな大きな驚きはなかった。だって死んでいたんだっていう証拠も何処にもなかったから。
天使は俺が言っていることを理解したんだと分かり話を続ける。

―でも僕は君に触れる事ができない。君に触れる事が出来るのは君と同じ人間だけ。

そうなのか。でもここには人っ子一人いないんだが…別の誰かが来るのを待つのか?
俺は体を回して黄色い花畑を見渡してみる。だがやはり人はいない。
視界に映っているのは、どこまでも続く黄色の世界。それを俺は今素直に綺麗だと思った。
この「綺麗」だと感じる気持ちも、どこかアイツの長い髪を見たときの気持ちと一緒。
だから俺は「綺麗」だと感じる事を知っていた。

―ここに人は来れない。僕が呼ばない限り。

じゃあ今すぐ呼んでくれよ。俺はアイツに会ってみたい。
そう思った時、俺の脳裏には彼女の八重歯を見せる笑顔がちらついた。
振りむく彼女のその表情に俺は思わずどきりとさせられてしまう。
何気なしに今の俺を「恋してる」んだと勝手に思った。
過る彼女の姿は必ず俺から欠けた何かを教えてくれる。

―そりゃあ今すぐ呼べるんだけど、誰でもいいの?

ん?誰でも…?そこで俺はふと投げやりな返事を喉元で止める。
一端の亀裂が俺の心に走る。

―これは覚えておいて。君は僕が選んだ特別な人間なんだ。君は誰か一人の命を犠牲にして生きるんだ。この世界に来たらそれはほぼ間違いなく死を意味する。

俺は今の一言が凄く重い気がしてふと思考を止める。
今から俺がやろうとしているのは…人殺し、なのか?
少しだけ後ずさった俺の気持ちを慰めるように天使(と俺が勝手に呼ぶことにする)は俺に言葉を掛ける。

―そうとも言えるし、そうとも言えない。それは君の考え方・やり方次第だと思う。あの「世界」で君が一人の人間を犠牲にした事実はもちろん残らない。ただ…君が選んだ人間は、君が選んだことを唯一人知っている。

彼の言っている言葉は明快で、それを理解できている自分の頭は状況にだけ置いていかれてた。
きっと俺が疑問に思っているのはこの一点だけ。だから状況が飲み込めない。どうしてそんな特別な存在に俺が選ばれたのか、ということ。

―君であることに理由はない。ただ気まぐれに君だっただけ。特別とは言ったけれど、その特異性も偶然に過ぎなかった。君がもしこの申し出を断ったとしても、僕はまた違う人間を気まぐれに選ぶだけさ。

そう、なのか…?俺は置かれた状況を強引にも喉に詰め込もうとする。
でもどうしても喉を完全には通らなくて少しだけむせそうになるけれど、吐き出してしまったらもう飲み込むことを諦めてしまいそうで我慢をする。
そして次に浮かんだのは、60億という人間の群れだった。
今自分はこの60億の人間からたった一人を選んで、そいつを殺すことで生き還ろうとしているんだ。
でも、決してそれは咎められることではない。誰一人俺がそいつを選んだことを知らないんだから。
選ばれた奴には俺が選んだことを知る権利があるようだが、そいつはこっちに戻ってくることはない。
ん?ちょっと待て。もし俺が仮に人間Xを選んだとして、そいつがまたお前の気まぐれで誰かを選び生き還ることができるなら、間違いなくXは俺を選びはしないだろうか。

―もしかしたらそうかもしれないね。僕が君を選んだ人間Xを偶然で「特別」にしないとも限らない。約束はできない。

じゃあこれは、天使のおふざけであって、結局は俺がまたここに戻ってくるようになっている何ともいたちごっこな流れが出来上がっているのではないか。
俺の思考はなんだか行き止まりに辿りついたようで、頭にため息をつく。ふう…。
そんな俺を見かねて、天使は一言俺に助言をする。

―それなら、選ばれても君をもう一度選ばないような人間Yを選べばいいじゃないか。

え…?そんなやつ、この世の中に存在するのか?
行き止まりだった通路に強引な穴が開く。その穴からは少しだけ光がちらついた様な気がした。
あぁ…つまり、死にたいと思ってる人間を選べばいいんだな。
死を志願している人間を選んでやれば、むしろ俺は選んだことを感謝されるかもしれん。
そしてそいつはこっちの世界で永遠に暮らせばいいんだ。そうだそうだ。

―でも、死を志願している人間の中に本当に死にたいと願っている人間はどれくらいいるんだろうね。

…は?どういうことだよ。自ら殺されたいと願っているやつらは全員もちろん死にたいと願っているんだろ?
天使の言動がまったく理解できなかった。だってそうだろ?死にたいって思っているやつが死の志願者だろ?
天使は一瞬だけ呆れたように、それでもしっかりと説明を加えてくれた。

―君がもし「この世で死にたいと願っている人間を一人」選んだなら、それはもちろん社会の闘争に嫌気がさして本気で今にも死にたがっている人間を選ぶかもしれないけれど、
近所の小学生がちょっとした嫌なことで「死にたい」って願ったなら、その子も候補に入っていることを意味するんだ。
その瞬間本気で死にたいと願った人間はすべて候補に挙がってしまうんだよ?
でも、その小学生は本気で「死にたい」と願っているわけではないよね。その子は選んだ君をきっと怨むだろう。「死にたい」と願っていたにもかかわらずね。

それはまったくの問題外だ。だってそれなら俺の知っている人間でそういう人間がいればソイツを…。
その時俺は頭に思考を巡らせてみるが、俺の頭にはたった一人の人間しか記憶がなかった。
そう、俺には「知り合い」がいない。「友人」がいない。「家族」がいない。…「人間」がいない。
たった一人浮かぶのはあの八重歯の似合う少女たった一人だけ。

―君には記憶がない。君の知り得る人間は一人だけだろ?だから特定の一人の人間を選ぶことはできない。
とある条件を持った不特定多数からランダムで僕が選ぶことになる。君が選ぶのはその「とある条件」までだ。
その子に会いに行きたいと願う君はその子を選ぶわけにはいかない。
だから君は「彼女が選ばれ得ない特定の条件」を決めるんだ。絶対に彼女が選ばれない、そして選んだ人間が選ばれたことを後悔しないような、君に恨みを持たないような条件を。

うーん…それは困った問題だ。俺は「世界」を知ってはいるがそこに住んでいる「人間」を知らなかった。いや正確には忘れてしまった。
俺だって以前はその「世界」に住む一人だったはずなのに。
俺は今になって思うが、絶対に賢い頭の切れる人間ではなかったように思う。
実際天使にこんなにも特別扱いされているにもかかわらずその絶対な条件を考えられずにいる。
生きていた時の自分を少しだけ呪った。だが死んでしまった今、正確には昏睡して死にかけている今、そんなことを言っている場合と状況でもない。

―ゆっくり考えて欲しいんだが、君があちらの「世界」で死んでしまったなら、もう誰かが背中を押すことはできなくなる。

なんだと。この花畑では時間の経過が無視されるものだとばっかり思っていたので面喰ってしまった。
そうか、そりゃあ俺が死んじゃったら背中を押すどころじゃなくなるよな。
そんなに時間は残されていない。あるだけ考えてみようじゃないか。
とにかくあの女の子を選ばない条件よりも先に選んだ人間Xに恨まれないような条件を考えてみる。
俺がそのXを選ぶということはほぼ確実にXが死ぬことを意味する。つまり俺にXは殺されるんだ。
Xが俺を恨まないということは「殺されたかった」と願う人間であることが条件。
でもただ殺されたいと願う人間を条件として提示したならほんの軽はずみな願いで「死にたい」と願ったやつらも皆入っちまう。
軽はずみに死を願うやつらは現実ではそうならないと確信しているからそんな願いを持つんだ。
60億の人間を考えたとき本気で死を願う人間とそうならないと確信し死を願う人間のどちらが多いだろうか。
そりゃあ決まってる。そうならないと確信し死を願う人間だ。
実際俺だって少なからず嫌なことで「死にたい」と思ったことはある。
でもそれだって、現実では願っただけで殺されることはないからだ。
ならば本気で死を願っているような人間を選ぶ確率がより高くなる条件は何だろうか。
っていうかそれならいっそ「本気で死にたいと思っている人間」では駄目だろうか。

―もちろんそれでも良いけど、さっきも言った通り軽はずみで言った人間でもその瞬間は本気で死にたいと思っているからその願いを発しているんだよ?

そう、だったな…。じゃあ死にたいと願う瞬間はいつなんだろうとふと考えてみる。
その願う瞬間がより具体的になれば、きっと本気で願う人間を選ぶ確率が上がるだろう。
人が死ぬことを望む瞬間。それは何か自らの人生を呪うような出来事が起こったとき。
いじめを受けている人…いじめを受けている環境を脱してしまえばそんなことは些細なことだと思えるようなことではないか?
会社をクビになってしまった人…それでもまた新しい職を見つければいいし、死にたいと思っても不本意ではないか?
借金に塗れてしまった人…今は借金をすべてなかったことにしてゼロからスタートできる制度だってあるし、死んでしまうこともないのではないか?
あれこれと可能性を考えてはみるものの、どうしても一歩弱い人間ばかりである。
本気で死を望んでいる人間などいないのではないか、と少し思ってしまう。皆口ばっかりだ。
あ、でもその可能性は潰れたことを思い出した。本気で死にたいと願う人間は、自殺をするんだ。
俺の世間では少なからず自殺をした人間が報道されていたように思う。
ソイツらこそが、本当に望んだ死の志願者なのではないか。

―でも、同時に自殺を踏みとどまってきた人間も多いと思うよ。自殺を願う人間を全員に当てはめてしまうのは危険じゃないかな。
その瞬間は自殺を強く望んでも、次の瞬間には踏みとどまっていたかもしれないよ。

…いちいち俺の思考を止めにかかるやつだな。少し黙ってられないのか?
すると天使は無感情のまま俺に告げる。

―分かったよ。じゃあ僕からの助言はこれまでだ。後は君が決めたことなら何も言わない。

そのまま天使はその場で黙って俺を見つめ続けている気がした。
どこからか視線を感じたからだ。でもあまり不思議と気にはならなかった。
さて、時間はあまりない。早く良い条件を探しださなくては。
死を本気で望んだことにない俺にはその苦しみを理解することはできない。
でも俺は、誰かを犠牲にしてでもあの八重歯の少女に会わなくてはいけない。
そんな気がしたんだ。
その時、俺の全身に何か激しい痛みが走った。壮絶な痛みだった。
あああがぁああ…!!!!
死にそうな激痛だった。これまで感じたこともないような死を悟ったかのような諦めをどこか心に抱いた。
しかしその痛みもすぐに止んだ。…一体なんだったんだ、この痛み。
刹那、俺の脳裏に一瞬の閃きがきた。
そうか…今俺は、本当の死の痛みを理解した。
この「本当に死んでもいい」と思ってしまうこのつらさ、痛み、苦しみ、そして終始感じた絶望と終末感。

今にも死にそうな致命傷を負っている誰かは、本気で死を願うんじゃないか。

実感しないと分からない、でも実感できるのは死んでしまうその瞬間ただ一度きりだけ。
俺はきっとその一瞬を体感したのかもしれない。
胸に本当に傷跡が残っているわけではない。
だがこの痛みはもしかしたら、俺があっちの「世界」からこっちに来るとき感じた痛みなんじゃないかと思った。
俺はこの痛みのせいで、こっちに来る羽目になったんだと。
本当に死にそうなくらいの痛みは、これ以上なのかもしれない。
だから俺は、本当に何となく、天使にこう告げた。

「世界」にいる今も致命傷で苦しんでいる誰かを、救ってやってくれよ。

そんな台詞を溢したんだと…思う。正直覚えていない。
それぐらい無意識に出た言葉だった。

―君は「救ってくれ」と今言ったけれど、それは自分が生きるための犠牲なんだよ?…それを分かって、「救ってくれ」って言ったの?

天使の言葉が大きく胸を抉る。
その通りだ。聞こえはいいがその致命傷を負った人間Xの死があって俺の人生がある。

―所詮は君の「人を殺したんだ」っていう罪を軽くしたいがために言った言葉なんじゃないのかって僕は思う。

いやそれは違う。
俺が一人の人間を犠牲にしたっていう事実は変わらないし、その罪を打ち消そうなんても思ってやいない。
ただ、本当に呟きぐらいの小さな声で、漏らしちまっただけなんだ。
もしかしたら俺が選んだそいつは俺を恨むのかもしれないな。それならそれでもいい。
とにかく今を苦しんでいる奴を、救ってやりたいと不意に思った。
殺すんじゃなくて、救う…はは、自分で言ってて我ながら凄い傲慢で凄い偽善な気がしてきた。

―いいや、君が言うならそれは確かにそれは救うことになるのかもしれない。それは選ばれた人間Xの主観次第だ。

そうだな。どっちにしたって俺が人を一人殺したんだってことに変わりはない。
そんで、そいつを踏み台にして俺が生きていくんだってことも。

―君はその事実をあっちの「世界」に戻っても憶えているよ。ずっと。そう僕が祈るから。

そうなのか…やっぱり人を殺すってのは重いんだなぁ…死にかけの世界で犯した罪だって、帳消しにはならない。
でも俺はその方がいいと思った。なんでだか分からないけれど。
なんだかそのときが近い気がして俺は思わず目を閉じた。
しばらく長い長い暗闇が一面に広がっていた。
しかし目を閉じたまま一度瞬きをすると、目の前にはあのずっと会いたいと願った少女が居た。
ずっとこっちを優しい目で見つめていたけれど、これ以上近づいて欲しくない、と全身で訴えているようだった。
それはもしかしたら俺の人殺しの罪を非難してのことなのかもしれない。
でも俺はそうは思わなかった…だって、彼女はずっと柔らかな笑顔でこっちを見ていたから。
手には大きな花束を持っていた…あれはブーケだ。結婚式の最後に投げるアレ。
ピンクのパーカーを着た少女は確かに俺がこの世界でずっと憶えていた少女のはずだが、少しだけ大人びている気がする。
そして赤ん坊を宿しているのか、お腹が少しだけ膨らんでいた。
でもやっぱり、可愛い八重歯だなって思った。俺の思考は結局そこに行き着いた。
その八重歯が次の瞬間見えなくなって不思議に思い顔を見てみると、少女は泣いていた。柔らかな笑顔はそのままで。
涙だけが一滴、そしてまた一滴と流れ、やがて一筋の涙へと変わった。
その矛盾した少女の顔からは彼女が笑っているのか、泣いているのかをはっきりと判断できない。
しばらく二人で見つめ合っていると、やがて少女は今までで一番優しい笑顔になる。
目が穏やかな曲線を描き、本当に美しい満面の笑顔。
俺も自然と笑顔になる。やはり少女の笑顔には、人を巻き込む魅力があるのだと確信した。
そしてその笑顔のまま少女は言葉を発した。

―ねぇ...後ろ、向いて?

少女に促されるまま俺は後ろを向いた。
すると気配から少女がゆっくりとこちらに向かって歩いてくるのが分かった。
俺はなんだろうとドキドキ、ずっと緊張したまま少女が近づいてくる気配を感じていた。
そして少女の足取りが止まる。少女は俺の真後ろにまで来ていた。
すると少女は俺の肩に手をかける。
その瞬間、激しい頭痛が俺を襲った。先程の激痛とはまた違った痛み。
その頭痛は生き物のように俺の脳をかき回し、蹂躙した。
目眩、というレベルを通り越し脳を直接殴られているかのような感覚。
そしてその痛みがぴたりと止んだとき、俺はすべて思いだした。全部全部全部…全部!!
じゃあそこにいるお前は…!!!
そう思ってすぐに振りかえると…俺は乱暴にキスをされていた。
乱暴だけど、優しいキス。本当に久しぶりだった。
俺も乱暴に彼女の可愛い八重歯の裏を舌でなぞる。
舌越しに八重歯の先の痛みを感じた。
キスの途中で彼女の流した涙が触れた俺の頬にも伝ってきた。
長い長いキスを終え離れると、伝った涙と俺の流した涙が重なった。
やっと会えた彼女の前で俺は悲しい涙を流す。
どうして?せっかく会えたのにどうして悲しいのか。
今の俺にはすべて理解できた。
何も知らなかった俺が「世界」を思い出した。
彼女とのキスのやり取りで、「世界」が繋がった。
脳裏に残る八重歯の少女の行方も、あの天使の思惑も、全部。
キスを終えた少女の表情はどこかもの寂しげで名残惜しそうで、でもそれでも笑ってた。
最期まで、涙を流しながら。
俺はその少女の涙を唇ですくった。
罪を負った自分を慰めるかのように。
それでも少女の涙は一向に止まらない。
だから俺は少女を背に、後ろを向く。
そして少女は、俺の背中を優しく、奈落の底へと突き落とした。

俺は高校時代、野球をしていた。
ファーストを守る俺は一番彼女の傍に近かった。選手の中で誰よりも。
彼女は俺の高校の野球部のマネージャーで、いつも俺たち野球部を世話してくれた。
でも彼女はいつだって平等に俺たちの世話をしていたから、みんながみんなきっと彼女を狙っていたと思う。
最後の夏大会が終わり皆で涙に暮れていた中、彼女は俺の肩を抱いてこう言ったんだ。

私と、付き合ってくれませんか。

彼女は今までも何人かの野球部員に告白を受けていた。
でも、その全員を断ってきていた。

最後の大会まで、そういうのはナシでいきたいの。

そう言いながらも、どこか部員達は彼女の視線がどこに向かっていたのか薄々気づいてはいた。
気づいてなかったのは俺だけ。
部員全員の申し出を断って、彼女は俺を選んでくれた。
それが凄く嬉しくて、俺はその時彼女を一生大切にしようと誓ったんだ。

その誓いの通り、俺は彼女をすごくすごく大切に想った。
高校時代に持っていたプロ野球選手になる夢は果たせなかったけど、それでも俺は彼女と一緒にいられるだけで満足だった。
彼女は大学に行って考古学を学んだ。
今は亡き父親の研究の意思を継ごうと、幼い頃から決意していた大きな夢だった。
俺はというと、そんなに頭は良くなかったから大学には行かず地元の会社で就職をした。
俺の就職が決まった時は彼女が競争率の高い大学に合格した時よりもはしゃいで喜んでくれた。
自分の喜びよりも他人の喜びを一緒に、素直に喜べる優しい子だったんだ。

彼女は大学で素晴らしい成績を残し、考古学の研究を始められるようになった。
きっと彼女の父親が生きていたなら一緒に研究することができたのに、と僅かな後悔を残しながら。
彼女の研究は無知な俺にはさっぱりで、話を聞いていても眠くなってしまう。
それでも彼女が自分の好きなことを懸命にしているその姿は、本当にかっこよくて、凄くうらやましくて、でも好きだった。
彼女はこんな俺でも愛想をつかさないで一緒にいてくれた。
居てくれるだけでいい、居てくれるだけでいい、って何度も言って笑ってくれた。
俺の抱えてた痛みを優しい笑顔で何度も癒してくれていた。
他人の痛みを分かってあげられる優しい子だったんだ。

時折彼女は泣いていた。俺の気付かないところで。
彼女の提示した研究を他人に徹底的に非難されたことを嘆いていた。
悔しい、悔しいって何度も。
でも俺は彼女の悲しみを理解してあげられない。
俺は彼女の研究のすべてを知らなかったし、何も出来なかったから。
それでも俺は彼女の肩を優しく抱いてあげる事が出来た。
彼女の熱弁を最後までうんうんと頷いて聞いてあげる事が出来た。
何も知らない俺だって彼女の傷を癒してあげる事が出来たんだ。
翌日は腫れた瞼を隠して笑ってた。八重歯をチラつかせながら。
自分の痛みを他人に見せない強さを持った子だったんだ。

彼女が大学を卒業したその日、俺は彼女にプロポーズをした。
高い婚約指輪は買ってあげられなかったけど、給料で十分なものを買うことができた。

俺と、結婚して下さい。

我ながら捻りのないプロポーズだったと思って今は反省している。
でも彼女は俺に茶化し一つ入れずに返事をしてくれた。

はいっ。

なんだかその返事が野球部員の点呼を連想させて、思わず俺は笑ってしまった。
そのことを彼女にも話すと、彼女も腹を抱えて笑っていた。
俺たちはなんでも笑顔で乗り越えて来れた。
そしてそれはこれからもきっとそうなんだってあの時信じてた。

彼女は大学で持った考古学の信念を胸に、立派な考古学者となった。
彼女の大きな夢が叶った瞬間だった。
毎日が研究とレポートに明け暮れる日々。少女はそんな多忙に弱音一つ吐かなかった。
きっとその忙しさが、すごく楽しくて心地良かったんだと思う。
そしてその数カ月後、遂に彼女も発掘に行く許可が下りた。
発掘はとても小さな規模のものだったけれど、彼女はその前夜おおはしゃぎだった。
俺も彼女の喜ぶ姿を見てつられて笑顔になる。
本当に…本当に元気な子だった。
有り余った自分の元気を他人に分け与えてあげられるような子だったんだ…。

発掘調査当日、俺も一緒に南アフリカへと飛んだ。
まだまだ新人の彼女に付き添いは俺だけだった。
彼女は飛行機の中でずっと発掘できることに浮かれていた。
鼻歌まで歌うほどだ。
これは彼女にとっては滅多にないことでいかに浮かれているかを物語る確固たる証拠だった。
そしてアフリカの地へ降り立つと、俺達は精一杯肺の中にその新鮮な空気を入れて楽しんでいた。
するとそこに4人組の男達がやって来て俺たちに告げた。

今そこの空港で違法入国者が多いため検査を行っている。君達は東洋の人かな?

その会話には彼女が対応してくれた。
会話はすべて英語でなされていて、俺にはまったく理解できなかったからだ。
しばらくの応対を終え、彼女は俺に大体のことを教えてくれた。
アフリカ内での入国者でないと思われる人々に簡単な手続きを踏んで欲しいそうなのでついてきて欲しいとのことだった。
確かに国内に違法入国者がいて何かされてからでは遅い。
そう思って手続きを踏むだけなら、と彼らの車に同行した。
しかし、それが運の尽き。
俺達は彼らの車に乗ると同時に大きなナイフを突き付けられた。

動けば殺す。黙ってついてこい。

そんなことを言っていたんだと思う。
英語だったから俺には分からなかったけれど彼女は黙って動かなかったから俺もそれに応じた。
しばらく車で目隠しされ、車が止まると出るように促された。
そこに着き建物らしきところに足を運ぶと、俺はいきなり殴られた。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
俺は気を失ってしまいそうになりながらも、その手で必死に彼女を探り当てようとした。
時折彼女の呻く声が聞こえた気がした。助けを求めていた気がした。俺が大切にするって…誓ったんだ。
俺は何度も殴られ、何度も蹴られながらも必死に叫んだ。彼女の名を。叫んで、叫んだ。
すると喉を蹴られた。俺は飛行機で食べた機内食をすべて吐き出してしまった。
それでも、ぼろぼろになりながらも力を振り絞って声を出した。彼女の名を叫び続けた。嗚咽の様に。
いやそれは既に嗚咽になっていたのかもしれない。だって、俺の顔はぐしゃぐしゃに涙でいっぱいだったから。
それでも、彼女だって苦しんでいるに違いない。そう思って俺はまだ叫んだ。彼女の名を。
するとジタバタしていたはずの腕を切られた。最初は気づかなかったが、やがて激痛が走ることで腕を失ったことに気付けた。
俺は激痛で呻くよりも先に、彼女を探り当てる事ができなくなったことを悲しんでまた呻いた。
そんな俺を気味悪がってかその場にいたと思われた集団が駆けてどこかに去るのが気配で分かった。
やっと俺達は解放される…そう思って俺の意識は一面黄色の世界へと飛ばされたんだ。
その時俺に必死で声を投げかける声が聞こえた。

君!!大丈夫か!!!しっかりしろ!!おい!!

どうもこれは駆け付けた警備班達の声だった。野太くハキハキとした声。
その声を聞いて安心したが、それでも最後の力を振り絞って、俺は言った。彼女の名を。
俺の大好きだった、八重歯が誰よりも似合う彼女の名を。
彼女の面影を脳裏に刻みつけて、俺は黄色の世界へとやって来たんだ。
もう一度、彼女に会うために。


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はっと目が覚めると、そこは病院の一室だった。
俺と彼女の家族が俺の顔を覗き込んでいた。
彼らは俺が目覚めたことに涙を流して喜んでいた。
でも、俺はまだ頭がぼーっとする上に頭痛がひどい。
俺は右手で頭を押さえようとして…出来なかった。
俺の右腕は関節の少し上で、繋がれていた。
五本の指を動かそうとしても、その五本の指が俺の右腕には存在しない。
これじゃあもう…二度とバットは握れない。
それを悲しむ前に、俺は一つ号泣して喜ぶ彼らに問うた。
彼女はどこだ、と。
すると一同の声は止み、そこには沈黙が残る。
分かってはいた。でも、やっぱり聞かずにはいられない。

彼女の最期を。

彼女は俺が目覚める数日前に発見された。
彼女はアフリカの地方へと飛んでいた。俺達の着いた空港からはとても遠い場所。
どうも俺が救助隊に発見される少し前に連れ去られてしまった後だったらしい。
その遠い地で数日間に及ぶ監禁と性的暴行を受け続けていた。
彼女の発見された死体はいくつかの臓器が抜き取られ、腹の部分に縫合跡があった。
腹は大きく膨らんでおり、中に赤ん坊がいたのか、何かが敷き詰められていたのかは不明である。
いや正確には判明しているが、俺はそこまで聞きたくなかったから耳を塞いだ。

俺とアイツは、一度も交わったことなんて、なかった。

俺達が会った4人組とその仲間達は未だ捕まってはいない。
何せアフリカで起こる犯罪だ。捕まるとも思っていない。
でもそいつ等が許せない、って気持ちでいっぱいなのが今の俺…という訳でもなかった。
自分で自分が不思議でしょうがなかった。でもその理由は想い出せる。
やっぱり浮かぶのはあの笑顔で、涙を流した笑顔で。
俺は死の痛みを黄色い世界で実感していたから。
俺だって、人を殺したから。
俺は、喚き叫ぶようなことはしなかった。
しばらく何も考えずにしていたら、涙が頬を一筋だけ伝った。
ただ…それだけ。

数ヵ月後、俺はやっと退院が許された。
退院後俺が向かった先は、俺が通ってきた高校のグラウンドだった。
もう夕方を少し過ぎ野球部は練習を終え誰もいなかった。
俺はおもむろに野球ベンチの中にあったバットを手に持った。
右手で持とうとして、一瞬踏みとどまり左手を伸ばす。
そしてゆっくりと歩いてバッターボックスへと入る。

お願いしゃぁす!!

審判に一礼し、失った右手を添え左手でバットを構える。
ピッチャーマウンドを見つめる。
そして、一振り。
俺はバットを投げた。
思い切り、左手で。
そして泣いた。
泣いた。
二度と見る事ができない彼女の笑顔を胸に。
俺の泣き喚く声はグラウンド中に響き渡り、木霊した。

俺はずっとあの黄色い世界で、人を殺す言い訳を探してた。
その末に見つけ出した偽善に塗れた都合の良い言い訳は、果たして彼女を幸せに出来たのだろうか。
もし彼女以外の人間を選んでいたとしても、彼女は死んで見つかったかもしれない。
もし生きていたとしても、ずっと昏睡状態から目覚める事はなかっただろう。
なら彼女の死に意味が出来た今、彼女はあの黄色い世界で喜んでいると言えるのだろうか。
それを知る術はない。彼女の主観次第だ。
でも俺には後悔しか残っていない。
彼は本当に残酷な現実の中に一つだけ光を宿してくれたに過ぎないのだから。
ただ、気になることがある。
どうして俺を選んだのか、と。
それを不意に聞きたくなった。
するとどこからか声が、あのなつかしい脳に直接響く感覚が俺を襲い、こう告げた。

―僕も野球が好きだった。




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俺はどうも死んだらしい。
もちろん死因なんて覚えてやしないし、今までどんな生活を送っていたのかも覚えてない。
それでもたぶん俺は今まで人生を生きてきて、そして死んだ。
その事実とたった一つの思い出が俺の胸に刻まれていた。それを感じていた。今も。
死んで止まったはずの心臓が鼓動を打ってはいるが、俺は「生きている」という感覚を忘れてしまっていた。
でももしかしたらこれが「生きている」ということなのかもしれないと、俺は「生きている」心地を楽しんでいた。
とくんとくん、と打つ心臓の鼓動と同じくらいの回数で全身の血管からどくんどくん、と脈打つ感覚。
「あぁ、そうだこの感覚だ。俺はこんなことを当たり前だと思っていたんだ」と分かりもしない生きた心地を自分で納得する。
ふと自分の体を見回すと文字通り地に足もつかない状態で浮かんでおり、そこは果てしなく続く黄色い花畑の中だった。
黄色い花は一面に咲いているものの花の持つ匂いまでは分からない。自分の鼻では匂いを感じる事が出来なかった。
鼻が悪い、というわけではなくきっと黄色い花たちに匂いがないんだろう。俺は自己完結を繰り返した。

記憶がないわけじゃない。
俺は自分が人間であったことを覚えているし、花や鼻といった物体の名称、そして何より考える術を知っていた。
でも俺の名前がなんだったのか、親はどんな人だったのか、兄弟はいたのか、どんな将来を持っていたのか。
俺は「世界」を知らなかった。
俺を取り巻いていたはずの「世界」は一体どんなものだったのか、それが思い出せないままだった。
ただ一つだけ思い出せるのは…俺はどんな人間を好きだったのか、ということだけ。

俺は確か…そう、自分よりも年下の女の子がずっとずっと好きだった。
いつも俺の傍にはソイツがいて笑ってた気がする。俺もソイツも。
少しだけ見える八重歯が可愛くて、照れ隠しに頭を乱暴に撫でてやってたんだ。
元気な子だった。有り余った元気を他人に分け与えてあげられるような子だった。
何をするも全力投球だった。その全力に他人を巻き込む勇気を振るうような子だった。
思ってることが顔に出る子だった。それでも他人に自らの弱さを見せない強さを持った子だった。
ソイツが俺のことを好きだったのかは分からないけど、俺は好きだった。
好きっていうのは、もちろん恋人にしたいって意味の好き。
どこに惚れたのかまでは覚えてない。でも…強いていうなら、背中だろうか。
いや俺が背中フェチだっていう訳じゃない。
ソイツが前を向いて走っている姿を眺めてたら、俺はソイツの背中で「楽しい」んだって気持ちを感じた。
ソイツの足取りが覚束無いのなら、俺はソイツの背中で「寂しい」んだって気持ちを感じた。
思い出せるたった一つのソイツが、「世界」を知らない俺に何でも教えてくれるような気がしたんだ。
どうしてだろう。「世界」を何も知らない俺がたった一つだけ思いだせること。
俺はなんだか、ソイツにまた会いたい気がした。
またあの八重歯を見たいと思った。声を聞いてみたいと思った。一緒に話してみたいと思った。一緒にバカをやってみたいと思った。
頭を優しく撫でてあげたいと思った。顔も覚えていないのに…。

俺の胸の中でソイツへの想いが大きくなっていくにつれて、胸の中で誰かの語りかける声が聞こえてきた。
それは徐々に大きくなって、やがて俺の頭まで届いてきた。

―また、その子に会ってみたい?

何かの誘いをかけるような、それでいてどこか手を差し伸べているようなその声は俺の脳に浸透し、やがて全身へと走った。
電流、と表現するには少し弱いその一種の痛みにも似た快楽が車酔いのような吐き気を催した。頭がくらくらする…。
それにしても今コイツ…会ってみたいって…?

―君がここで今も覚えているその子に、会ってみたい?

また同じような甘い声で俺の脳を刺激する。俺はその声からまだ幼い天使のような容姿を想像した。
声変わりがまだ始まっていない甲高い少年の声。確かそんな声だった気がする。

―会わせてあげるよ。

…え?
俺はまだ少年の言っていることが少しだけ理解できないままにまた少し動転した。
アイツに会えるのか…?ここで?

―いいや。ここでは会えない。彼女は君が忘れてしまったあの「世界」にいる。

人生を、やり直す…ってことか?俺はまた生まれ変わって一から人生をやり直せるのか?
声に出していないはずの俺の沈黙に天使は首を振っている(ような気がする)。

―いいや。君は死んでなんかいない。気を失っているだけ。だから誰かが一回だけ君の背中を押せば、またあの「世界」に帰れる。

俺は、死んでいなかったのか。
そんな大きな驚きはなかった。だって死んでいたんだっていう証拠も何処にもなかったから。
天使は俺が言っていることを理解したんだと分かり話を続ける。

―でも僕は君に触れる事ができない。君に触れる事が出来るのは君と同じ人間だけ。

そうなのか。でもここには人っ子一人いないんだが…別の誰かが来るのを待つのか?
俺は体を回して黄色い花畑を見渡してみる。だがやはり人はいない。
視界に映っているのは、どこまでも続く黄色の世界。それを俺は今素直に綺麗だと思った。
この「綺麗」だと感じる気持ちも、どこかアイツの長い髪を見たときの気持ちと一緒。
だから俺は「綺麗」だと感じる事を知っていた。

―ここに人は来れない。僕が呼ばない限り。

じゃあ今すぐ呼んでくれよ。俺はアイツに会ってみたい。
そう思った時、俺の脳裏には彼女の八重歯を見せる笑顔がちらついた。
振りむく彼女のその表情に俺は思わずどきりとさせられてしまう。
何気なしに今の俺を「恋してる」んだと勝手に思った。
過る彼女の姿は必ず俺から欠けた何かを教えてくれる。

―そりゃあ今すぐ呼べるんだけど、誰でもいいの?

ん?誰でも…?そこで俺はふと投げやりな返事を喉元で止める。
一端の亀裂が俺の心に走る。

―これは覚えておいて。君は僕が選んだ特別な人間なんだ。君は誰か一人の命を犠牲にして生きるんだ。この世界に来たらそれはほぼ間違いなく死を意味する。

俺は今の一言が凄く重い気がしてふと思考を止める。
今から俺がやろうとしているのは…人殺し、なのか?
少しだけ後ずさった俺の気持ちを慰めるように天使(と俺が勝手に呼ぶことにする)は俺に言葉を掛ける。

―そうとも言えるし、そうとも言えない。それは君の考え方・やり方次第だと思う。あの「世界」で君が一人の人間を犠牲にした事実はもちろん残らない。ただ…君が選んだ人間は、君が選んだことを唯一人知っている。

彼の言っている言葉は明快で、それを理解できている自分の頭は状況にだけ置いていかれてた。
きっと俺が疑問に思っているのはこの一点だけ。だから状況が飲み込めない。どうしてそんな特別な存在に俺が選ばれたのか、ということ。

―君であることに理由はない。ただ気まぐれに君だっただけ。特別とは言ったけれど、その特異性も偶然に過ぎなかった。君がもしこの申し出を断ったとしても、僕はまた違う人間を気まぐれに選ぶだけさ。

そう、なのか…?俺は置かれた状況を強引にも喉に詰め込もうとする。
でもどうしても喉を完全には通らなくて少しだけむせそうになるけれど、吐き出してしまったらもう飲み込むことを諦めてしまいそうで我慢をする。
そして次に浮かんだのは、60億という人間の群れだった。
今自分はこの60億の人間からたった一人を選んで、そいつを殺すことで生き還ろうとしているんだ。
でも、決してそれは咎められることではない。誰一人俺がそいつを選んだことを知らないんだから。
選ばれた奴には俺が選んだことを知る権利があるようだが、そいつはこっちに戻ってくることはない。
ん?ちょっと待て。もし俺が仮に人間Xを選んだとして、そいつがまたお前の気まぐれで誰かを選び生き還ることができるなら、間違いなくXは俺を選びはしないだろうか。

―もしかしたらそうかもしれないね。僕が君を選んだ人間Xを偶然で「特別」にしないとも限らない。約束はできない。

じゃあこれは、天使のおふざけであって、結局は俺がまたここに戻ってくるようになっている何ともいたちごっこな流れが出来上がっているのではないか。
俺の思考はなんだか行き止まりに辿りついたようで、頭にため息をつく。ふう…。
そんな俺を見かねて、天使は一言俺に助言をする。

―それなら、選ばれても君をもう一度選ばないような人間Yを選べばいいじゃないか。

え…?そんなやつ、この世の中に存在するのか?
行き止まりだった通路に強引な穴が開く。その穴からは少しだけ光がちらついた様な気がした。
あぁ…つまり、死にたいと思ってる人間を選べばいいんだな。
死を志願している人間を選んでやれば、むしろ俺は選んだことを感謝されるかもしれん。
そしてそいつはこっちの世界で永遠に暮らせばいいんだ。そうだそうだ。

―でも、死を志願している人間の中に本当に死にたいと願っている人間はどれくらいいるんだろうね。

…は?どういうことだよ。自ら殺されたいと願っているやつらは全員もちろん死にたいと願っているんだろ?
天使の言動がまったく理解できなかった。だってそうだろ?死にたいって思っているやつが死の志願者だろ?
天使は一瞬だけ呆れたように、それでもしっかりと説明を加えてくれた。

―君がもし「この世で死にたいと願っている人間を一人」選んだなら、それはもちろん社会の闘争に嫌気がさして本気で今にも死にたがっている人間を選ぶかもしれないけれど、
近所の小学生がちょっとした嫌なことで「死にたい」って願ったなら、その子も候補に入っていることを意味するんだ。
その瞬間本気で死にたいと願った人間はすべて候補に挙がってしまうんだよ?
でも、その小学生は本気で「死にたい」と願っているわけではないよね。その子は選んだ君をきっと怨むだろう。「死にたい」と願っていたにもかかわらずね。

それはまったくの問題外だ。だってそれなら俺の知っている人間でそういう人間がいればソイツを…。
その時俺は頭に思考を巡らせてみるが、俺の頭にはたった一人の人間しか記憶がなかった。
そう、俺には「知り合い」がいない。「友人」がいない。「家族」がいない。…「人間」がいない。
たった一人浮かぶのはあの八重歯の似合う少女たった一人だけ。

―君には記憶がない。君の知り得る人間は一人だけだろ?だから特定の一人の人間を選ぶことはできない。
とある条件を持った不特定多数からランダムで僕が選ぶことになる。君が選ぶのはその「とある条件」までだ。
その子に会いに行きたいと願う君はその子を選ぶわけにはいかない。
だから君は「彼女が選ばれ得ない特定の条件」を決めるんだ。絶対に彼女が選ばれない、そして選んだ人間が選ばれたことを後悔しないような、君に恨みを持たないような条件を。

うーん…それは困った問題だ。俺は「世界」を知ってはいるがそこに住んでいる「人間」を知らなかった。いや正確には忘れてしまった。
俺だって以前はその「世界」に住む一人だったはずなのに。
俺は今になって思うが、絶対に賢い頭の切れる人間ではなかったように思う。
実際天使にこんなにも特別扱いされているにもかかわらずその絶対な条件を考えられずにいる。
生きていた時の自分を少しだけ呪った。だが死んでしまった今、正確には昏睡して死にかけている今、そんなことを言っている場合と状況でもない。

―ゆっくり考えて欲しいんだが、君があちらの「世界」で死んでしまったなら、もう誰かが背中を押すことはできなくなる。

なんだと。この花畑では時間の経過が無視されるものだとばっかり思っていたので面喰ってしまった。
そうか、そりゃあ俺が死んじゃったら背中を押すどころじゃなくなるよな。
そんなに時間は残されていない。あるだけ考えてみようじゃないか。
とにかくあの女の子を選ばない条件よりも先に選んだ人間Xに恨まれないような条件を考えてみる。
俺がそのXを選ぶということはほぼ確実にXが死ぬことを意味する。つまり俺にXは殺されるんだ。
Xが俺を恨まないということは「殺されたかった」と願う人間であることが条件。
でもただ殺されたいと願う人間を条件として提示したならほんの軽はずみな願いで「死にたい」と願ったやつらも皆入っちまう。
軽はずみに死を願うやつらは現実ではそうならないと確信しているからそんな願いを持つんだ。
60億の人間を考えたとき本気で死を願う人間とそうならないと確信し死を願う人間のどちらが多いだろうか。
そりゃあ決まってる。そうならないと確信し死を願う人間だ。
実際俺だって少なからず嫌なことで「死にたい」と思ったことはある。
でもそれだって、現実では願っただけで殺されることはないからだ。
ならば本気で死を願っているような人間を選ぶ確率がより高くなる条件は何だろうか。
っていうかそれならいっそ「本気で死にたいと思っている人間」では駄目だろうか。

―もちろんそれでも良いけど、さっきも言った通り軽はずみで言った人間でもその瞬間は本気で死にたいと思っているからその願いを発しているんだよ?

そう、だったな…。じゃあ死にたいと願う瞬間はいつなんだろうとふと考えてみる。
その願う瞬間がより具体的になれば、きっと本気で願う人間を選ぶ確率が上がるだろう。
人が死ぬことを望む瞬間。それは何か自らの人生を呪うような出来事が起こったとき。
いじめを受けている人…いじめを受けている環境を脱してしまえばそんなことは些細なことだと思えるようなことではないか?
会社をクビになってしまった人…それでもまた新しい職を見つければいいし、死にたいと思っても不本意ではないか?
借金に塗れてしまった人…今は借金をすべてなかったことにしてゼロからスタートできる制度だってあるし、死んでしまうこともないのではないか?
あれこれと可能性を考えてはみるものの、どうしても一歩弱い人間ばかりである。
本気で死を望んでいる人間などいないのではないか、と少し思ってしまう。皆口ばっかりだ。
あ、でもその可能性は潰れたことを思い出した。本気で死にたいと願う人間は、自殺をするんだ。
俺の世間では少なからず自殺をした人間が報道されていたように思う。
ソイツらこそが、本当に望んだ死の志願者なのではないか。

―でも、同時に自殺を踏みとどまってきた人間も多いと思うよ。自殺を願う人間を全員に当てはめてしまうのは危険じゃないかな。
その瞬間は自殺を強く望んでも、次の瞬間には踏みとどまっていたかもしれないよ。

…いちいち俺の思考を止めにかかるやつだな。少し黙ってられないのか?
すると天使は無感情のまま俺に告げる。

―分かったよ。じゃあ僕からの助言はこれまでだ。後は君が決めたことなら何も言わない。

そのまま天使はその場で黙って俺を見つめ続けている気がした。
どこからか視線を感じたからだ。でもあまり不思議と気にはならなかった。
さて、時間はあまりない。早く良い条件を探しださなくては。
死を本気で望んだことにない俺にはその苦しみを理解することはできない。
でも俺は、誰かを犠牲にしてでもあの八重歯の少女に会わなくてはいけない。
そんな気がしたんだ。
その時、俺の全身に何か激しい痛みが走った。壮絶な痛みだった。
あああがぁああ…!!!!
死にそうな激痛だった。これまで感じたこともないような死を悟ったかのような諦めをどこか心に抱いた。
しかしその痛みもすぐに止んだ。…一体なんだったんだ、この痛み。
刹那、俺の脳裏に一瞬の閃きがきた。
そうか…今俺は、本当の死の痛みを理解した。
この「本当に死んでもいい」と思ってしまうこのつらさ、痛み、苦しみ、そして終始感じた絶望と終末感。

今にも死にそうな致命傷を負っている誰かは、本気で死を願うんじゃないか。

実感しないと分からない、でも実感できるのは死んでしまうその瞬間ただ一度きりだけ。
俺はきっとその一瞬を体感したのかもしれない。
胸に本当に傷跡が残っているわけではない。
だがこの痛みはもしかしたら、俺があっちの「世界」からこっちに来るとき感じた痛みなんじゃないかと思った。
俺はこの痛みのせいで、こっちに来る羽目になったんだと。
本当に死にそうなくらいの痛みは、これ以上なのかもしれない。
だから俺は、本当に何となく、天使にこう告げた。

「世界」にいる今も致命傷で苦しんでいる誰かを、救ってやってくれよ。

そんな台詞を溢したんだと…思う。正直覚えていない。
それぐらい無意識に出た言葉だった。

―君は「救ってくれ」と今言ったけれど、それは自分が生きるための犠牲なんだよ?…それを分かって、「救ってくれ」って言ったの?

天使の言葉が大きく胸を抉る。
その通りだ。聞こえはいいがその致命傷を負った人間Xの死があって俺の人生がある。

―所詮は君の「人を殺したんだ」っていう罪を軽くしたいがために言った言葉なんじゃないのかって僕は思う。

いやそれは違う。
俺が一人の人間を犠牲にしたっていう事実は変わらないし、その罪を打ち消そうなんても思ってやいない。
ただ、本当に呟きぐらいの小さな声で、漏らしちまっただけなんだ。
もしかしたら俺が選んだそいつは俺を恨むのかもしれないな。それならそれでもいい。
とにかく今を苦しんでいる奴を、救ってやりたいと不意に思った。
殺すんじゃなくて、救う…はは、自分で言ってて我ながら凄い傲慢で凄い偽善な気がしてきた。

―いいや、君が言うならそれは確かにそれは救うことになるのかもしれない。それは選ばれた人間Xの主観次第だ。

そうだな。どっちにしたって俺が人を一人殺したんだってことに変わりはない。
そんで、そいつを踏み台にして俺が生きていくんだってことも。

―君はその事実をあっちの「世界」に戻っても憶えているよ。ずっと。そう僕が祈るから。

そうなのか…やっぱり人を殺すってのは重いんだなぁ…死にかけの世界で犯した罪だって、帳消しにはならない。
でも俺はその方がいいと思った。なんでだか分からないけれど。
なんだかそのときが近い気がして俺は思わず目を閉じた。
しばらく長い長い暗闇が一面に広がっていた。
しかし目を閉じたまま一度瞬きをすると、目の前にはあのずっと会いたいと願った少女が居た。
ずっとこっちを優しい目で見つめていたけれど、これ以上近づいて欲しくない、と全身で訴えているようだった。
それはもしかしたら俺の人殺しの罪を非難してのことなのかもしれない。
でも俺はそうは思わなかった…だって、彼女はずっと柔らかな笑顔でこっちを見ていたから。
手には大きな花束を持っていた…あれはブーケだ。結婚式の最後に投げるアレ。
ピンクのパーカーを着た少女は確かに俺がこの世界でずっと憶えていた少女のはずだが、少しだけ大人びている気がする。
そして赤ん坊を宿しているのか、お腹が少しだけ膨らんでいた。
でもやっぱり、可愛い八重歯だなって思った。俺の思考は結局そこに行き着いた。
その八重歯が次の瞬間見えなくなって不思議に思い顔を見てみると、少女は泣いていた。柔らかな笑顔はそのままで。
涙だけが一滴、そしてまた一滴と流れ、やがて一筋の涙へと変わった。
その矛盾した少女の顔からは彼女が笑っているのか、泣いているのかをはっきりと判断できない。
しばらく二人で見つめ合っていると、やがて少女は今までで一番優しい笑顔になる。
目が穏やかな曲線を描き、本当に美しい満面の笑顔。
俺も自然と笑顔になる。やはり少女の笑顔には、人を巻き込む魅力があるのだと確信した。
そしてその笑顔のまま少女は言葉を発した。

―ねぇ...後ろ、向いて?

少女に促されるまま俺は後ろを向いた。
すると気配から少女がゆっくりとこちらに向かって歩いてくるのが分かった。
俺はなんだろうとドキドキ、ずっと緊張したまま少女が近づいてくる気配を感じていた。
そして少女の足取りが止まる。少女は俺の真後ろにまで来ていた。
すると少女は俺の肩に手をかける。
その瞬間、激しい頭痛が俺を襲った。先程の激痛とはまた違った痛み。
その頭痛は生き物のように俺の脳をかき回し、蹂躙した。
目眩、というレベルを通り越し脳を直接殴られているかのような感覚。
そしてその痛みがぴたりと止んだとき、俺はすべて思いだした。全部全部全部…全部!!
じゃあそこにいるお前は…!!!
そう思ってすぐに振りかえると…俺は乱暴にキスをされていた。
乱暴だけど、優しいキス。本当に久しぶりだった。
俺も乱暴に彼女の可愛い八重歯の裏を舌でなぞる。
舌越しに八重歯の先の痛みを感じた。
キスの途中で彼女の流した涙が触れた俺の頬にも伝ってきた。
長い長いキスを終え離れると、伝った涙と俺の流した涙が重なった。
やっと会えた彼女の前で俺は悲しい涙を流す。
どうして?せっかく会えたのにどうして悲しいのか。
今の俺にはすべて理解できた。
何も知らなかった俺が「世界」を思い出した。
彼女とのキスのやり取りで、「世界」が繋がった。
脳裏に残る八重歯の少女の行方も、あの天使の思惑も、全部。
キスを終えた少女の表情はどこかもの寂しげで名残惜しそうで、でもそれでも笑ってた。
最期まで、涙を流しながら。
俺はその少女の涙を唇ですくった。
罪を負った自分を慰めるかのように。
それでも少女の涙は一向に止まらない。
だから俺は少女を背に、後ろを向く。
そして少女は、俺の背中を優しく、奈落の底へと突き落とした。

俺は高校時代、野球をしていた。
ファーストを守る俺は一番彼女の傍に近かった。選手の中で誰よりも。
彼女は俺の高校の野球部のマネージャーで、いつも俺たち野球部を世話してくれた。
でも彼女はいつだって平等に俺たちの世話をしていたから、みんながみんなきっと彼女を狙っていたと思う。
最後の夏大会が終わり皆で涙に暮れていた中、彼女は俺の肩を抱いてこう言ったんだ。

私と、付き合ってくれませんか。

彼女は今までも何人かの野球部員に告白を受けていた。
でも、その全員を断ってきていた。

最後の大会まで、そういうのはナシでいきたいの。

そう言いながらも、どこか部員達は彼女の視線がどこに向かっていたのか薄々気づいてはいた。
気づいてなかったのは俺だけ。
部員全員の申し出を断って、彼女は俺を選んでくれた。
それが凄く嬉しくて、俺はその時彼女を一生大切にしようと誓ったんだ。

その誓いの通り、俺は彼女をすごくすごく大切に想った。
高校時代に持っていたプロ野球選手になる夢は果たせなかったけど、それでも俺は彼女と一緒にいられるだけで満足だった。
彼女は大学に行って考古学を学んだ。
今は亡き父親の研究の意思を継ごうと、幼い頃から決意していた大きな夢だった。
俺はというと、そんなに頭は良くなかったから大学には行かず地元の会社で就職をした。
俺の就職が決まった時は彼女が競争率の高い大学に合格した時よりもはしゃいで喜んでくれた。
自分の喜びよりも他人の喜びを一緒に、素直に喜べる優しい子だったんだ。

彼女は大学で素晴らしい成績を残し、考古学の研究を始められるようになった。
きっと彼女の父親が生きていたなら一緒に研究することができたのに、と僅かな後悔を残しながら。
彼女の研究は無知な俺にはさっぱりで、話を聞いていても眠くなってしまう。
それでも彼女が自分の好きなことを懸命にしているその姿は、本当にかっこよくて、凄くうらやましくて、でも好きだった。
彼女はこんな俺でも愛想をつかさないで一緒にいてくれた。
居てくれるだけでいい、居てくれるだけでいい、って何度も言って笑ってくれた。
俺の抱えてた痛みを優しい笑顔で何度も癒してくれていた。
他人の痛みを分かってあげられる優しい子だったんだ。

時折彼女は泣いていた。俺の気付かないところで。
彼女の提示した研究を他人に徹底的に非難されたことを嘆いていた。
悔しい、悔しいって何度も。
でも俺は彼女の悲しみを理解してあげられない。
俺は彼女の研究のすべてを知らなかったし、何も出来なかったから。
それでも俺は彼女の肩を優しく抱いてあげる事が出来た。
彼女の熱弁を最後までうんうんと頷いて聞いてあげる事が出来た。
何も知らない俺だって彼女の傷を癒してあげる事が出来たんだ。
翌日は腫れた瞼を隠して笑ってた。八重歯をチラつかせながら。
自分の痛みを他人に見せない強さを持った子だったんだ。

彼女が大学を卒業したその日、俺は彼女にプロポーズをした。
高い婚約指輪は買ってあげられなかったけど、給料で十分なものを買うことができた。

俺と、結婚して下さい。

我ながら捻りのないプロポーズだったと思って今は反省している。
でも彼女は俺に茶化し一つ入れずに返事をしてくれた。

はいっ。

なんだかその返事が野球部員の点呼を連想させて、思わず俺は笑ってしまった。
そのことを彼女にも話すと、彼女も腹を抱えて笑っていた。
俺たちはなんでも笑顔で乗り越えて来れた。
そしてそれはこれからもきっとそうなんだってあの時信じてた。

彼女は大学で持った考古学の信念を胸に、立派な考古学者となった。
彼女の大きな夢が叶った瞬間だった。
毎日が研究とレポートに明け暮れる日々。少女はそんな多忙に弱音一つ吐かなかった。
きっとその忙しさが、すごく楽しくて心地良かったんだと思う。
そしてその数カ月後、遂に彼女も発掘に行く許可が下りた。
発掘はとても小さな規模のものだったけれど、彼女はその前夜おおはしゃぎだった。
俺も彼女の喜ぶ姿を見てつられて笑顔になる。
本当に…本当に元気な子だった。
有り余った自分の元気を他人に分け与えてあげられるような子だったんだ…。

発掘調査当日、俺も一緒に南アフリカへと飛んだ。
まだまだ新人の彼女に付き添いは俺だけだった。
彼女は飛行機の中でずっと発掘できることに浮かれていた。
鼻歌まで歌うほどだ。
これは彼女にとっては滅多にないことでいかに浮かれているかを物語る確固たる証拠だった。
そしてアフリカの地へ降り立つと、俺達は精一杯肺の中にその新鮮な空気を入れて楽しんでいた。
するとそこに4人組の男達がやって来て俺たちに告げた。

今そこの空港で違法入国者が多いため検査を行っている。君達は東洋の人かな?

その会話には彼女が対応してくれた。
会話はすべて英語でなされていて、俺にはまったく理解できなかったからだ。
しばらくの応対を終え、彼女は俺に大体のことを教えてくれた。
アフリカ内での入国者でないと思われる人々に簡単な手続きを踏んで欲しいそうなのでついてきて欲しいとのことだった。
確かに国内に違法入国者がいて何かされてからでは遅い。
そう思って手続きを踏むだけなら、と彼らの車に同行した。
しかし、それが運の尽き。
俺達は彼らの車に乗ると同時に大きなナイフを突き付けられた。

動けば殺す。黙ってついてこい。

そんなことを言っていたんだと思う。
英語だったから俺には分からなかったけれど彼女は黙って動かなかったから俺もそれに応じた。
しばらく車で目隠しされ、車が止まると出るように促された。
そこに着き建物らしきところに足を運ぶと、俺はいきなり殴られた。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
俺は気を失ってしまいそうになりながらも、その手で必死に彼女を探り当てようとした。
時折彼女の呻く声が聞こえた気がした。助けを求めていた気がした。俺が大切にするって…誓ったんだ。
俺は何度も殴られ、何度も蹴られながらも必死に叫んだ。彼女の名を。叫んで、叫んだ。
すると喉を蹴られた。俺は飛行機で食べた機内食をすべて吐き出してしまった。
それでも、ぼろぼろになりながらも力を振り絞って声を出した。彼女の名を叫び続けた。嗚咽の様に。
いやそれは既に嗚咽になっていたのかもしれない。だって、俺の顔はぐしゃぐしゃに涙でいっぱいだったから。
それでも、彼女だって苦しんでいるに違いない。そう思って俺はまだ叫んだ。彼女の名を。
するとジタバタしていたはずの腕を切られた。最初は気づかなかったが、やがて激痛が走ることで腕を失ったことに気付けた。
俺は激痛で呻くよりも先に、彼女を探り当てる事ができなくなったことを悲しんでまた呻いた。
そんな俺を気味悪がってかその場にいたと思われた集団が駆けてどこかに去るのが気配で分かった。
やっと俺達は解放される…そう思って俺の意識は一面黄色の世界へと飛ばされたんだ。
その時俺に必死で声を投げかける声が聞こえた。

君!!大丈夫か!!!しっかりしろ!!おい!!

どうもこれは駆け付けた警備班達の声だった。野太くハキハキとした声。
その声を聞いて安心したが、それでも最後の力を振り絞って、俺は言った。彼女の名を。
俺の大好きだった、八重歯が誰よりも似合う彼女の名を。
彼女の面影を脳裏に刻みつけて、俺は黄色の世界へとやって来たんだ。
もう一度、彼女に会うために。


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はっと目が覚めると、そこは病院の一室だった。
俺と彼女の家族が俺の顔を覗き込んでいた。
彼らは俺が目覚めたことに涙を流して喜んでいた。
でも、俺はまだ頭がぼーっとする上に頭痛がひどい。
俺は右手で頭を押さえようとして…出来なかった。
俺の右腕は関節の少し上で、繋がれていた。
五本の指を動かそうとしても、その五本の指が俺の右腕には存在しない。
これじゃあもう…二度とバットは握れない。
それを悲しむ前に、俺は一つ号泣して喜ぶ彼らに問うた。
彼女はどこだ、と。
すると一同の声は止み、そこには沈黙が残る。
分かってはいた。でも、やっぱり聞かずにはいられない。

彼女の最期を。

彼女は俺が目覚める数日前に発見された。
彼女はアフリカの地方へと飛んでいた。俺達の着いた空港からはとても遠い場所。
どうも俺が救助隊に発見される少し前に連れ去られてしまった後だったらしい。
その遠い地で数日間に及ぶ監禁と性的暴行を受け続けていた。
彼女の発見された死体はいくつかの臓器が抜き取られ、腹の部分に縫合跡があった。
腹は大きく膨らんでおり、中に赤ん坊がいたのか、何かが敷き詰められていたのかは不明である。
いや正確には判明しているが、俺はそこまで聞きたくなかったから耳を塞いだ。

俺とアイツは、一度も交わったことなんて、なかった。

俺達が会った4人組とその仲間達は未だ捕まってはいない。
何せアフリカで起こる犯罪だ。捕まるとも思っていない。
でもそいつ等が許せない、って気持ちでいっぱいなのが今の俺…という訳でもなかった。
自分で自分が不思議でしょうがなかった。でもその理由は想い出せる。
やっぱり浮かぶのはあの笑顔で、涙を流した笑顔で。
俺は死の痛みを黄色い世界で実感していたから。
俺だって、人を殺したから。
俺は、喚き叫ぶようなことはしなかった。
しばらく何も考えずにしていたら、涙が頬を一筋だけ伝った。
ただ…それだけ。

数ヵ月後、俺はやっと退院が許された。
退院後俺が向かった先は、俺が通ってきた高校のグラウンドだった。
もう夕方を少し過ぎ野球部は練習を終え誰もいなかった。
俺はおもむろに野球ベンチの中にあったバットを手に持った。
右手で持とうとして、一瞬踏みとどまり左手を伸ばす。
そしてゆっくりと歩いてバッターボックスへと入る。

お願いしゃぁす!!

審判に一礼し、失った右手を添え左手でバットを構える。
ピッチャーマウンドを見つめる。
そして、一振り。
俺はバットを投げた。
思い切り、左手で。
そして泣いた。
泣いた。
二度と見る事ができない彼女の笑顔を胸に。
俺の泣き喚く声はグラウンド中に響き渡り、木霊した。

俺はずっとあの黄色い世界で、人を殺す言い訳を探してた。
その末に見つけ出した偽善に塗れた都合の良い言い訳は、果たして彼女を幸せに出来たのだろうか。
もし彼女以外の人間を選んでいたとしても、彼女は死んで見つかったかもしれない。
もし生きていたとしても、ずっと昏睡状態から目覚める事はなかっただろう。
なら彼女の死に意味が出来た今、彼女はあの黄色い世界で喜んでいると言えるのだろうか。
それを知る術はない。彼女の主観次第だ。
でも俺には後悔しか残っていない。
彼は本当に残酷な現実の中に一つだけ光を宿してくれたに過ぎないのだから。
ただ、気になることがある。
どうして俺を選んだのか、と。
それを不意に聞きたくなった。
するとどこからか声が、あのなつかしい脳に直接響く感覚が俺を襲い、こう告げた。

―僕も野球が好きだった。



【2012/03/26 20:57】 | 小説
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